仏教で空というとき、それをどう理解し展開すればいいか?まず空という言葉はなぜ無ではないのか?無と空の違いは何か?この違いを契機にして空の思想の端緒を探る。
「ケータイを持ってない」というとき、そもそもケータイというのもが存在しないなら、この言葉を言う意味がない。それが存在することが前提であるからこそ「無い」ということに意味が出てくる。この「意味を持つ無い」という概念、それを空として考えてみよう。
沈黙とは、ただの無音ではない。言葉があるからこそ沈黙に意味が加わり、時には言葉以上の言葉になる。刑法において不作為とは行為はなくともそれが意味を持つものとなる。このように無いことを表現する言葉はいくつかあるがそれらはいずれも認識としてより高度なものになる。
この考えを自我に当てはめたものを無我とすればそれはどういう認識になるのか?これは少なくともヘーゲルが言ったような無にとどまっているようなもっとも無規定な認識ではなく、もっとも高い認識になる。
日本には「空気を読む」という習慣があるように、空気というものを意味の無いものとして決め込み無視して突き進むと大きな失敗をする危険がある。この空気というものを肯定的に捉える為にも空の思想を考える価値はある。
それにもかかわらず、西洋の学問に覆われた日本ではこういうことを考える土壌はなく、空と無は同一視される。行為が無いことが重要視されない。しかし今の日本は行為がないことをこそ考えなければならないのではないか。