書くこと

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このブログは軽い気持ちではじめたものだが、ある程度書いてみて気づいたことがいくつかある。まず自分には文章能力が著しく低いということ、ある事柄を言いたいときにそれを適切に表現するかっこいい言葉があるはずなのだがそれが出てこないとか、文章がどうしてもぎこちないものになってしまうとか。これは自分が文学作品をあまり読んでいないことが原因だろう。日本の近代の文学者には優れた人がいっぱいいる感じだし、青空文庫などもあるので、これから頑張って読むようにしよう。

文章を書くには当然それが書くに値すると感じるものでなければならないし、自分でもそういうものを書いてきたつもりだが、いったん書いて公開すると、あたかもそれが公衆にとって周知であったかのように感じることが多くなった。このブログはアクセスも多くないので、このブログの影響ということはありえないので自分の感覚が変わるということだろう。

何かを書く前は書けば書くほどネタが無くなってネタ切れになる、見たいに半ば思っていたが、全然違った。むしろ書けば書くほど書きたいことが増えてきて、ネタ太りになってしまうようだ。「知的生活の方法」と言う結構有名な本があって、自分も読んだが、ネタ切れになるという先入観はこの本からの影響だろうか。この本になにが書いてあったのかはまったく覚えていないのだが。ネタ切れになると言うことがもしあるならば、それは知識を断片的にしか習得していないからだろうと思われる。それなら当然、書けば書くほどネタは無くなる。しかし知識を論理として、体系として、有機的全体として把握していれば、どんなものもそれに取り込んだり、そこから止揚したりできし、そのときの動きを捉えればそれがネタになる。

そういう風に考えれば、人間にとって肝要な知とは決して実証主義的に獲得できるものではなく、形而上学的に、思弁的にしか獲得できないことになろう。日本人は宗教に対する寛容が著しく低く、どうように理念的なものに対する価値観も低い。しかし実証主義だけでは集めたデータはいつまでたってもデータでしかなくそこからは何も見えてこない。実証主義は思弁的なものを裏に隠す。支弁なくしては実証主義は成り立たないが、それを見えなくしている当のものでもあるのだ。

人間は理念(宗教でもイデオロギーでもいい)なくしては思考などできない、ということを素直に認め、理念の存在が問題なのではなく、その選択の違いだけが問題なのだ、ということを公衆の周知にしたい。

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