小沢一郎が辞任した。以前のエントリーで彼が党首続投を決めたことを歴史的瞬間などと書いたが、その意思は未来にゆだねられる事になった。この件を通じて考えさせられるのは「大衆」と言うものをどう見るか、ということだ。小沢氏は続投後は最後まで大衆的な意識を前提に行動を測っていたように思われる。

民主主義においては決定的には、つまり手続き的には多数決で決まるから大衆の意識を反映したものになる、しかし、政治家個人の意識において、思考、行動において大衆の意識を前提に行動するという考え方には自分は与することができない。

吉本隆明氏の言葉に「大衆の原像」がある。上に書いた小沢氏の態度はまさにこれに適合したようなあり方になっている。この言葉とそこから派生する考え方を自分はよく理解できないが、その理由は彼自身も理解したくないということにあると思う。つまり彼の組合運動の失敗に対して自分の態度を決定できていない状態で、そのことは彼の党派性に対する嫌悪にも結びついていると思う。

自分は「大衆の原像」という考え方は支持できない。だからといってポピュリズムや衆愚などといって蔑むつもりもないし、自分の考え方に大衆を啓蒙しようという考えもないし、お互いに意見を交換しながら相互理解をするつもりもない。だからあるとしたら、どちらの考えが勝利するにしろ、勝っても負けてもそれを同じ価値観で見ることのできる視点を把握することだと思う。

本来学問とはこういう視点を提供するものだと思うが、現在の学問はこういうことを一切教えてくれない。だから古典の中に答えを探すしかない。

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