再び仏教の時代くる?

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「スピリチュアル」が求められるこの時代、日本人として頼りになるものの1つは仏教だと思うが、仏教を勉強したいと思っても仏教の世界はとても広いのでどこから手をつければいいのかもよくわからない。一神教なら聖書を読めばいいのだが、仏教の場合どれを読めばいいのかとか、日本と仏教の関わり、最澄や空海、親鸞や日蓮の位置づけ、今いるお坊さん、こういった諸要素を包括的に眺めてから読みたいがなかなな難しい。

それと同時に、日本では根本的なことがら、物はなぜあるのとか、人はなぜ生きているのとかを学ぼうとするとまず哲学にいってしまうと思われる。哲学というとソクラテスやアリストテレス、もっと進んでデカルトやカント、だがちょっと待ってほしい、それ日本人に関係ねーから、それは西洋のお話だから、なんで日本人なのに西洋のものに向かってしまうの?もっともな疑問だが、それは多くの場合、西洋のものをある程度勉強したあとでふと気がつくことなのだ。悲しいじゃないですかぁ。

しかしそう気づいても、日本がそれで世界にタメはれるのか、というとまた疑問になってしまう。ヨーロッパはギリシア哲学で世界にタメはれる。中国は諸子百家でタメはれる。アメリカは自由と民主主義でタメはれる(か?)。イスラムはユダヤ、キリストを超えた最後の宗教としてタメはれる。で日本は仏教でタメはれるのかと言われれば無理だろう。タメはれるとすれば天皇くらいで思想としてはなにもない?だから仏教などやっても駄目で、世界の最先端を追従すればいい?それも悲しい。

しかし日本の歴史を自身が書いたものとして考えるなら、やはり仏教ははずせない。仏教を学んでいて面白いのは、それが自分に関ってくるからだ。例えば「千葉」と言う言葉が出てくる。日本語で「千葉」といえば、地名としての千葉という文脈でしかありえない。そして千葉という言葉を使っていても、それがなぜ千葉と呼ばれるのか、だれがそう名づけたのか、そういうことを知らずに使っている。もちろん経典に出てきた「千葉」と地名の千葉が直接間接の関係はないのかもしれない。しかし西洋の本を読んでいても「千葉」なんて言葉は絶対に出てこない。そういう意味で自分とつながることがおおいのだ。

そういう意味では西洋の哲学を学んでも、それは外から眺めているだけで、自分に帰ってこない。自分に帰ってくるとはいままで自分が知らずに知っていること(千葉)を知ることで、それはないよう豊かな知となり自分を歴史的に再規定できる。すばらしいじゃないですか。

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矜羯羅童子

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