格ゲーと人間評価

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格闘ゲームとは、コンピュータ上で人間同士が対戦するゲームである。プレイヤーは用意されているキャラの中から好きな一人を選んで対戦に望む。格ゲーを作るのは、一人用のゲームを作るより簡単なように見えるが、細部の調整(キャラ間の公平性確保)を考えると、はるかに難しいだろうと想像できる。将棋に例えるなら、最初の駒の置き方を同じにしないで、ほぼ互角になるような数種類の置き方(キャラ)を考えなければならないからであり、それは熟練棋士が実際やってみたあとの結果をみないとわからないものだからだ。現在こうした格ゲーを作れるのは日本のメーカだけだ。

人間は他の人間を評価するとき、一般的基準だけでなく自分だけの基準みたいなものを持っていると思うが、自分の場合それは格ゲーがどれくらい強いかで決まるのだが、自分より知的に豊富だったり、論理展開がうまいと感じさせるような人を見ても自分は負けた気分にはならないが、格ゲーで自分よりうまい人を見ると何をやってもかなわないと感じさせるから不思議だ。そして知的に豊富な人を全時間空間で見回しても格ゲーに強そうな人が見つからないのも不思議だ(どれくらい強そうかは大体想像がつく)。

そういった絶対的評価がネタとして行われているうちは気にせずにいられるのだが、最近は人間の絶対的評価が社会的評価になってきている。容姿の問題や、IQとかEQ?とか、血液型とかいったものでこれはどうにかしなければならない。ネタとベタ、聖と俗、対自と即自、どういっても同じだと思うが、アニメやゲームなどのオタクの聖なる領域が俗の領域に入ってくれば聖は聖としての価値をもちえなくなる。

などと書いていたら、産総研からとんでもないものが出てきた。これはひどい。最悪。もっと論理的にこの問題を考えていかなければならない時に来ていると思う。

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