慰安婦問題の解決法

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慰安婦問題をどう対応するかは日本にとっての大きな試金石である。と同時に今後の日本の進路を見定められるマイルストーンともなる問題である。慰安婦制度それ自体を肯定的に捉える視点はもはや日本にはなく、それを擁護したい場合でも、あの時代やあの状況では仕方がなかった、というものである。これは否定的な態度であるから、日本はもはやこういうことをする国ではない、というのが国民の考えである。

この否定的なものをどう処理するかはいくつかの位相がある、日本が良く思いつくのが謝罪という形態で、これは間違いであったことを認めるということである。つぎに賠償が続きその間違いによって生じた傷の償いということになる。だが大体はここで終わってしまい、それによってこの問題は解決されたと考え、この解決というのはそれ自体の消去のように捉えられ、むしろ消去するべきものと考えられる。そして実際にこの考えは実現され、河野談話の発表とアジア女性基金の創設、総理大臣のお詫びの手紙などが行われた。

だが求められているのはそれ以上のものである、それ以上というとまだ謝罪しないとならないのか、とか考えられたりするがそういった否定的なのものではなくこの否定的なものを否定し一つの肯定的な成果にまで結実させる、という要求である。

アメリカの各州が建てた銅像や碑石はこのようなものである、慰安婦自体が勇気を持って自らの過去を晒し世に正義を訴えそれを成し遂げた記念としての証である。もちろんこれには副次的な要因もある、朝鮮は過去日本であり、戦後敗戦国となった日本から分割されたという要因も大きい。この要因を不幸と見るべきではなく偶然にも見つけた四つ葉のクローバーのような好機と捉えるべきであり、その成果を成し遂げるのは当事者である日本であるべきである。碑石は高々記念にすぎず実効的な効果をもたらすものではない、より高い見地はこれを法として結実させることであり、これが日本の仕事とならなければならない。このような問題がなぜ起き、その起点は何であったのか、それを明らかにしそれを悪と規定してその防止を国際社会の基準とすべく努力すべきだ。

にも関わらず現在内閣を覆っている考えは河野談話の破棄である。

右派やその考えの代表者である安部首相にとって河野談話は不名誉なものでありこの世から消すべきものである、しかしもっとも不名誉なのはこのような否定的なものに一切目をつむり、それをなきものにしようという考え方である。

個人にしろ国家にしろ失敗は犯す。失敗を克服できるというのが名誉でありより高いあり方だ。議会は解散する、独裁国ではそれは国の解体を意味する。民主国ではそうではない、国家がより高い位置に置かれているからだ。民主国に相応しい対抗を期待したい。