この本はすごく難しい。難しさがレベルが普通の難しさと違うので理解するのがすごく大変。しかし前例もある。スピノザのエチカと同じような構想になっている。エチカでは自己原因=神=実態として、そのあり方の論考だが、じつは知性というのを持ち出して、その居場所が最初はよくわからなくなっている。論理学では知性が出てこない。ここが読み方を難しくしている。

ギリシアの自然哲学などは、知性の在り処とその対象はとても解りやすい。知性は人間にあり対象は外の自然だ。こういう知性と対象の関係が論理学では全然見えないために、一体何が何を見ているのかがわからない。

結論を言えば、論理学自体が神であって、そして自己原因であって、この書物は論理学が論理学を知る過程として書かれていると思われる。知性自身が知性を知るストーリのような展開になっている。
「有」から「概念」展開のストーリーとなっている。こんな書き方で合理的理解などは出来るわけはないので注意して読まなければならないがそれでもよくわからないところがたくさんある。

はじめに「有」がある。しかしそれは全く無規定なものなので「無」と同じである。そしてこの移行の中で、あるいは移行自体を「成」と捉え、「定有」へと固定される。しかしこの定有から、「質」が生ずる点があまり書かれていない。もちろん有、無、成などすでに区別できるものをもってはいる。しかし定有が質になると、それが「或るもの」や「他のもの」になってしまう。ここへの移行がいきなり行われてしまう。

定有はまだ、1つしかないはずだし、1とう概念自体があとに出てくる。とすればこの或るものと他のものというのは1つの定有に対しての認識なのか、複数の定有にたいするものなのか定かでない。有と無の移行のような動きがどうして定有で起こりえるのかの記述がない。

そしていずれにしろここから次のように進む。或るものはそれ自身他のものなので、その移行の中で自分自身と出合い、これが「向自有」になる。ここでも知性の場所が問題になる。在るものが自分に出会うなら知性自身が在るものであるはずである。それがどうして他のものでありえたのか。

ヘーゲルの哲学で重要な概念は、弁証法でも止揚でもなく「それ自身」という考え方である。論理学のこの部分に、そのはじまりの記述が見て取れるからここの理解はとても大事だと思うが、よくわからない。

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