ホリエモンの逮捕事件と松本龍大臣の辞任事件に共通する問題として、名誉主義と誠実主義の対立として考える。

モンテスキューの法の精神では国家体制のあり方を大まかに言って君主制と貴族性と共和制の3つに分ける。そしてそれぞれの体制で支配的な力の源が恐怖、名誉、徳であるとする。それぞれの政治体制の違いを見れば、支配する人がどこにいるかで分別でき、君主制では君主一人、貴族性では君主と君主のまわりの貴族たち、共和制では全国民となる。

恐怖と名誉はわかりやすいが、徳についてはこの言葉自体が善とか価値と同じような言葉なので理解しづらい。モンテスキューは徳というのを”政治的徳であって宗教的なものではない”とか”感情的な物”とか”国に対する愛”とか”病状に対する愛”とか”誠実”とか言っている。共和制では全員が支配者になるので、国に対する愛などは平等に対する愛と同じ感じになり、それは誠実であることみたいになるのだと思われる。

To conclude, the honest man of whom we treat in the third book, chapter 5, is not the Christian, but the political honest man, who is possessed of the political
virtue there mentioned.

Virtue in a republic is a most simple thing: it is a love of the republic; it is a sensation, and not a consequence of acquired knowledge: a sensation that may be felt by the meanest as well as by the highest person in the state.

ここでホリエモンを誠実、検察を名誉、あるいは、松本復興大臣騒動では怒った国民を誠実、松本大臣を名誉とみることができそうだ。しかし、ホリエモンなんか誠実じゃないという人もいるかもしれない。それは何を誠実と思うかに依るからだし、徳という言葉も先に書いたように明確じゃない。まずこの2つを明確にする必要がある。

貴族制は貴族が支配する、自由なのは貴族だけになる。共和制では、国民が支配するので自由なのは国民になる。よって貴族性の下での国民の名誉とは貴族の価値観にとって肯定的なものということができ、共和制での徳は国民一人一人の自身の価値観にとって肯定的なもの、と表面上は言うことができる。

このような共和制的自由観の表れるとしての経済体制は資本主義になり、貴族制的自由観の表れが封建制、重商主義、あるいは社会主義ととりあえず言える。日本は社会主義であったことはないとすれば、ホリエモンや松本大臣の中にある対立は封建制と資本主義の対立とみることができる。

ここで天皇のことも考えないといけない。共和制といえば王がいない体制だから、日本は違う。天皇の存在がどれほどの名誉的価値を支えているかは定かではない。天皇は立法権も行政権もないので、簡単に言うことはできない。

日本は下からの革命は大体中途半端に終わってきた。下からの革命といえるものはない。下からやる力が充分になる前に上のほうでうまくやってきたともいえるし、他の国にやってもらったとも言える。

誠実的価値は戦後一貫して大きくなってきたといえると思うが、インターネットの登場でさらに広がったといっていいだろう。ネット空間は現世から離れた、肉体的制限から開放された場所なので、強制を加えることは難しい。こういう空間では精神は自由に働くから、そこでの支配的力は誠実となる。

今後の資本主義はいい展望が見えないので、これに対する反感が大きくなると同時に、その中で生きるためにはより資本主義的でなければならなくなる。この対立は誠実と誠実の対立だが、名誉によって解決しようとする人も現れて混乱するだろう。しかし長期で見れば、非資本主義的で、なおかつ名誉に価値を見出さない、そういう方向に向かうだろう。

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