「原発・震災と新たな社会運動」 感想文

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ソフィーの選択
究極の選択。人間にとって一番苦しい選択。子供が二人いる。一人を選びなさい。選ばれなかった人はガス室送りですよ。選ばなかったら二人ともガス室送りですよ。

まさち(大澤真幸)にとってはこれが人間にとっての究極的な倫理的問題だそうだ。こういう問題の取り上げ方自体が、アングロサクソン的、現代ユダヤ的でくだらない問題なのである。こんなのは倫理的問題でもなんでもない。回答は簡単だ。ナチスが悪い。これが回答である。こんなものは全然倫理的問題じゃない。くだらない。そう考えられない人はおかしな人である。たとえ偶然的にこういう問題に直面したとしても、人間にとっての倫理的問題とは、人間なら誰でも必然的にぶつかるようなそういう問題じゃなければ全然本質的じゃないのである。

偽ソフィーの選択
エアコンが大事か子供が大事か?そう聞かれたら明らかでしょ

まさちにとっては原発はエアコンでしかないらしい。全然違う。人間が危険に直面したときのあり方の問題。アメリカにはいい言葉がある。「What we have to fear is fear itself.」どうしてか?飛行機を作ったといわれるライト兄弟。どうしてそれができたのか?飛行機のない時代に人間が空を飛べるなどと考える人間は誰もいない。そんなことやろうとしたら危なくてしょうがない。低く飛んでいるうちならいいが、本当に飛ぼうと思ったら、いつかは落ちたら死ぬくらいの高さまで行かなきゃいけない。恐れなければいけないのは恐れ事態。恐れを克服しなければなしえない、そういうことはあるし、それをなくしてしまったら壁しかなくなる。低い壁。それを乗り越える勇敢さ、原発はそういう問題を含んでいる。それを度外視してエアコンにたとえる思想の貧弱性。

不在の他者
被害を受ける人たちは未来の人たち。今生きてる人たちが全部死んだ後の問題。
弱い意味での不在の他者:過去の人
強い意味での不在の他者:未来の人
50年前福島原発を作った人は50年後の他者のことは間違いなく考えなかった。

過去は未来によって常に否定されるもの。未来をあらかじめつつみこんでやろうなど傲慢。

コージン(柄谷行人)
言いたいことはないけどデモをしよう。
相互扶助制にいつかもどる。
国家が悪い。国家が放射能

なに言ってるのか良く分らないけど、相互扶助性(原始共産制?)が理想状態であって、現代のような国家がある状態が最低の状態。だからデモしよいう。国家をつぶそう。ということらしい。

大災害にあって、暴動になるか、助け合いになるかは直接的には、全員が生きていけるだけのリソースがあるか、それをまわしてやっていけるかというとこにあって、やっていけないとなれば急速なものであれ緩やかなものであれ人を殺していくしかなくなる。しかし国際社会的にみてもそういうことはおこりえないだろう。

コージンに関しては次に書こう。
いづれにしてもまさちとかコージンとかこういう半端な人たちが知識人としてあがめられているとしたら異常だと思う。

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