最高裁の自由に対する認識段階

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(事実)国歌斉唱の際に起立しなかったことにより、採用されなかった。

(最高裁)国歌斉唱は慣例上の儀礼的な所作であるから、歴史観、世界観と不可分に結びつくとは言えない。

(最高裁)特定の思想と結びつくものであるとは言えない。

最高裁は国歌斉唱の起立は思想とは関係ないもののことのように言っている。儀式は思想や世界観とは関係ないというのだ。しかも外部から命令された場合には一層関係がないらしい。そしてその結果、それは思想や良心の自由とは関係がないのだそうだ。

思想が思想として、頭の中だけにしか存在しないなら、どんな境遇においても殺されない限り、思想は自由である。思想や良心はそれが本当に関心を持って考えられるなら必ず行動と結びつくのである。そして行動のほうを慣例や儀式と言って、思想とまったく切り離してしまえば、そもそもそんな行動など必要ないはずなのである。

最高裁がこのような悟性的認識にとどまっている限り、憲法でいくら自由を謳っていてもまったく内容のないものとなる。

そういうことをある程度考えた挙句、最高裁は「間接的」などという表現を使ってそれがあたかも、間接的であればあるほど些細な問題であるかのような言い方をしている。しかし事実は逆であって、間接的であればあるほど、人間的なそして精神的な活動は進展しているのであるから、より重く考えなければならないのである。直接的な行動をしているのは動物あるいは奴隷だけであって、こういうところだけを抽象して考えてしまえば、思想や良心の自由はますますおろそかにされることになる。

よって最高裁としてこういう結論になる。

(最高裁)このような間接的な制約について検討するに,個人の歴史観ないし世界観には多種多様なものがあり得るのであり,それが内心にとどまらず,それに由来する行動の実行又は拒否という外部的行動として現れ,当該外部的行動が社会一般の規範等と抵触する場面において制限を受けることがあるところ,その制限が必要かつ合理的なものである場合には,その制限を介して生ずる上記の間接的な制約も許容され得るものというべきである。

多種多様な世界観を包括する論理を提供することが国家の仕事であるべき、と言わなければならないのに、こんどは社会規範などという範疇を持ち出し、それとともに職務命令の多様性を持ち出して、思想の自由をその下においてしまうのである。

(最高裁)学校の卒業式や入学式等という教育上の特に重要な節目となる儀式的行事においては,生徒等への配慮を含め,教育上の行事にふさわしい秩序を確保して式典の円滑な進行を図ることが必要であるといえる。

だから円滑な進行を妨げているのは憲法をないがしろにした国にあるのである。

思想、良心の自由に対してこの程度の認識しかしていないのが今の日本の最高裁で、その段階は低い次元にある。

(竹内行夫)思想及び良心の自由は本来個人の内心の領域に係る
上述したとおりこのレベル。

(竹内行夫)まず自分の国の国旗,国歌に対する敬
意が必要であり,学校教育においてかかる点についての配慮がされることはいわば当然であると考える。

そのためには最高裁レベルの自由認識では足りない。

(須藤正彦)例えば一夫多妻制や一妻多夫制が正しいとの歴史観等を有することは絶対に自由であるが,これに従って重婚に及んだ者は処罰される(刑法184条)

家の問題と国家の問題の混同、家の問題の経済的事情との関連の捨象をした単純な比較の無思想。一般的に不倫は悪であるという認識は存在していて、一夫一婦制こそ自由の進展の結果なのである。一夫多妻制のほうがより自由という確信などどこにもない。もしそれが存在し、確信にまで高められているのなら、どこかに現れるはず。自由と放縦の違いの無理解。

(須藤正彦)多様な思想,多元的な価値観の併存こそが民主主義社会成立のための前提基盤

こういう一面的理解。思想というのは多様になればなるほど統一を求めて、統一されればされるほど多様を求めるもの。

このレベルの判決をいくら読んでも同じと思うので、なぜ最高裁ですら、このような表層的な自由に対する考えしかないのか。そのことの方が問題だろう。アメリカで流布している自由に対する考え方、しかしアメリカの最高裁は日本よりははるかに高い自由を理解している。戦後民主主義の成れの果て。学問細分化の成れの果て。敗戦の極地。

(須藤正彦)外部的行為が介在する場面での思想及び良心の自由の保障は,必ずしも絶対不可侵のものとしての意味のそれではない。けだし,社会一般の規範等に基づく外部的行為の要求が間接的制約を生ずるがゆえに絶対的に許されないのであれば,結局社会が成り立たなくなってしまう。

自由と放縦の無理解。

(須藤正彦)特定の国家観を前提とせず,普通教育の従事者たる教員に,自国のことに注意を向けるための契機を与えようとする教育を行わしめることは,教育を受ける権利や全体の奉仕者という観点においても,憲法上の要請ということも可能である。

国民を納得させられる、特定の国家観、そしてそこから導かれる特定の行為(君が代)を提供することが国の責務。

(須藤正彦)「日の丸」,「君が代」がメッセージしているのは,特定の国家像などが
前提とされていない国であり,したがって,本件におけるような卒業式典における起立斉唱も,慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものと捉えられるといえる。

日本という特定の国家。「メッセージしている」なんて表現。
(須藤正彦)高校生徒の自由な思想の形成を損なう

内容の統一がないのに、形式だけ統一させるという無意味な行動。こんなものが栄えるはずない。

(千葉勝美)これでは自分が嫌だと考えていることは強制されることはないということになり,社会秩序が成り立たなくなることにもなりかねない。

憲法18条。一面的理解。これを目指すという志向がない。

(千葉勝美)上告人の「日の丸」・「君が代」に関する歴史観等そのもの,あるいはそれと不可分一体のものとまではいえないが,それに由来するものである(仮に,これも不可分一体であるとなると,それはおよそ制限を許さない不可侵なものということになるものと考える。)。

最高裁まで来たなら不可分一体とみるべき、不可分一体でないなら単なる気まぐれにしかならない。思想を低く見ている証拠。

最高裁の水準が分ったし、それを支えているであろう学問の水準も大体わかった。いまだ合理性という言葉が、悟性的というしかもってないということであり、あれこれのものを一面的にしか捕らえないで、段階的に進展的に理解するという思想がないことである。これは裁判官だけの問題ではなくて、戦後日本、冷戦後の世界という軸で捕らえていかなければならない問題だろう。

竹内行夫 2008年10月就任 元外交官
須藤正彦 2009年12月就任

2009年12月就任

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