なぜネット社会は個性を拡大させるか

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情報には個人情報とそうでないものがある。この区分は明確にできるわけではないが、自分の氏名、生年月日、住所などは強く個人情報的だといえる。その人の好きな動物なども個人情報にはなりえるが、それは弱い。1+1の答え、今の時刻、コンピュータの規格などの情報は個人情報にはなりにくい。

インターネットでは個人情報を送信すべきでないことを自然と身につけることになる。特に日本のような支配的言説と現実の間に大きな乖離がある。その乖離は、戦後だけ見れば敗戦の反省をしなかったこと、戦後は経済成長だけを拠り所としたことなどにより、日本が日本自身を知り、展開することができなかったことがまずある。そしてそれでも個性の全体との融合は大きかったので、個人は葛藤を抱えることは少なかった。

このような中で個人情報を出して発信することは全体との融合に対して境界線をつくる行為となるので、避けられるようになる。しかし21世紀になり、資本主義が行き詰まり全体が没落してくるとその中にいても生活の充実を感じられなくなる。

ネットの中に発信する情報は、そのたびごとに個人情報かどうか確認されるので、情報が個人情報であるかそうでないかの境界が明確に意識されるようになる。

このように沸き上がってきた個性に対して、高度成長世代は否定的に接することが多いが、一度獲得した個性はやれワガママだの甘えだの言われたところで、圧迫されることはあっても消し去ることはできない。人間にとってもっとも肝要な知識は自分自身に関することだからだ。

新人の就職問題に関しても、露骨にワガママとは言わないが、政治家などは雇用のミスマッチという表現を使って、結果的には若者に対して価値観を変えること迫る。これは間違った行き方だ。

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