http://cruel.org/books/kapital/kapitalband1.pdf

ここの議論で、すでになぜか「労働」だけ特別扱いされていることに注目。ある商品が何でできて
いるか、たとえば紙だとか、プラスチックだとか、鉄だとか、というのは交換価値においては捨象される
ことになっている。だったら、それが労働の産物である、ということも捨象されているはずなのに、マル
クスはここでそれを「労働の産物」と言い続ける。労働価値説という変な議論をひねり出すための伏線が
すでにここにあるわけだ。
 さらに、ここの部分とその後の部分で、労働であることは捨象されないくせに、どんな労働であるかは
捨象されて、無視していいことになってしまうという恣意性にも注目。

商品は紙であることもあるし鉄であることもある、しかし労働が加わっていない商品を探すのは難しいし、あったとしてもそういうものは偶然的なもので考察の対象からはずしてもおかしくはない。商品の本質に労働は関係ないという考えならばそれはそれで別の論理になろうがマルクスは労働を本質においたという事。別段おかしな前提ではない。

そして労働という言葉そのものが存在する以上、その概念はあるわけで、すわなち個別の労働の質を捨象するという意識的合意はすでに存在することになる。よってそれを量として考えることは別段おかしな前提ではない。

前節のインチキの結果として、労働 = 価値という労働価値説が早速出てきてる。恣意的に労働と
いうのを残すという勝手な前提があるから、恣意的な労働価値説が導かれているだけだ。

労働を捨象しないのがおかしいと言うなら、なにを抽象するものを考えているのか。すべてを捨象した残りかすに意味はない。

ここでの「平均」とか「通例」という物言いで、マルクスは市場というのをなあなあでごまかそう
としているのに注目。

そうではなく、個別的偶然的なことは考えないで全体を考えようとしていること。そんなことを言うのなら現実には円も直線も存在しないので、そういうことを考えるのはすべてごまかしということになる。

じゃあさっきのダイヤは?

ダイヤが役に立つかどうかは社会的に決まること、最初は個人が役に立つと確信して個人的労働を投入するが、それが売れない、すなわち使用価値を持たないなら、彼は失敗したと言うことで、結局彼のやっていたことは労働ではなかったと言うこと。それは個別的偶然的な自称でしかなく、考察に値しないと言うこと。学問は必然的なものを対象とする。マルクスは全体として考えているので、労働と言った場合は実現される労働を念頭においている。

じゃあリネンと上着の場合だって同じ量の繊維でできているいった意味になるだろうに。要する
に、モノにはいろんな性質があって、だから等号で結んだときそれが何をもって「等しい」としているか
はその式を書いた人次第なのだ。恣意的に考えた「価値」を前提の段階でマルクスが負わせたからこそ、
その後の価値形態論が引き出されるだけ。ここもまた、前提がめぐって結論になってるだけだ。

前提がめぐって結論になるのは当然でしょうに。

訳しててうんざりするんだが、マルクスはここで同じことを何度も何度も、ちょいと語順を変えた
りしてくどくど言い直しているけれど、何も新しいことを言っていないのだ。何かちがいがあるんだろう
と思いこんでそれを読み取ろうとすると、深読みして重箱の隅つつきに堕するはめになるのでご注意を。

この時点での記述はまだ貨幣が登場してない世界の話。それを知っている人間にとっては、当たり前のように見える。しかしその当たり前の背後には色々あるということ。

飽きたのでもうやめよう。

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